2016-2-1
はじめに
先進国のみならず新興国においても医療のターゲットが急性期疾患から慢性期疾患にシフトしていく中で,生活習慣病の予防は世界的な課題として認識されている。さらに,患者中心の医療や,患者参加型医療といったモデルにより提唱される今後の医療現場は,生活と医療の境界を厳密に定義できない領域にシフトしつつあると言える。また,超高齢化社会の到来による医療費の削減圧力は看過できないレベルにまで高まっており,閉鎖的な専門家集団として医療従事者が一方的に医療サービスを提供する従来の体制から脱却し,医療側から積極的に患者の健康意識に働きかけることで,全体の医療費の上昇を抑制する必要に迫られている。従来,医療記録は施設内で厳重に管理することが正とされていたが,われわれの推進する iDolphin Projectでは,診療情報を患者に積極的に還元する試みを15年前から続けている。
iDolphin Project
NPO法人日本医療ネットワーク協会(JMNA)1)を中心として,2000年ごろから患者個人の一生涯の医療記録を永続保存することを目的としたEHRシステムの開発が進められてきた。iDolphin Projectと呼称し,京都府下,宮崎県下を中心として,過去十数年にわたり参加医療機関の診療情報を蓄積している。患者のうち希望者は,地域の医療連携協議会(京都府下では「まいこネット」,宮崎県下では「はにわネット」)にユーザーとして登録することで,参加医療機関を受診した際の記録を閲覧できるようになる。本来的にはすべての診療情報が患者に帰属するという解釈も考えられるが,診療上の誤解などを避けるため,提供する情報は参加医療機関の各診療科のポリシーに準拠している。おおむねすべての診療科が処方,検査結果,退院時サマリなどの提供に同意している。例えば,まいこネットでは,患者が血液検査などを受けた場合,翌日の夜半には検査結果をインターネットを通じて閲覧することができる。検査結果を次回の診察時まで待ってから聞く場合に比べ,患者の診療に対する参加意識に雲泥の差を生む。
図1にJMNAのサービス提供体制を示す。それぞれの地域ごとのEHRの運営は地域の協議会に任されており,JMNAはデータの相互互換性(interoperability)を担保したEHRシステムを提供する。実体としての診療情報は国内のクラウドサービス上に設置されたデータセンターに蓄積されるため,病院などデータ提供施設から見ると,EHRに収納されたデータは災害時であっても最低限の診療を継続するための参照用バックアップとなる。図2にシステム構成を示す。参加医療機関からは,日次のバッチ処理で当日の診療情報がMML(Medical Markup Language)由来のデータフォーマットでデータセンターにアップロードされる。アップロードされたデータは,国際標準規格(openEHR archetype)準拠のデータモデル2)にマッピングされてデータベースに格納される。患者ユーザーは,協議会のホームページからログインして自身の診療記録を閲覧できる。医師ユーザーは,パソコンに協議会から発行された証明書をインストールすることで,病院内にいるのと同様に担当患者の診療記録を閲覧できる。
モバイル端末での診療情報閲覧サービス
まいこネットでは2003年からホームページでの診療記録閲覧サービスを実施している。モバイル端末での閲覧の要請が高まり,2012年からiPadアプリ,2014年からiPhoneアプリを提供している。iDolphinViewer3)という呼称のアプリで,参照可能な当人の診療情報をすべて端末にダウンロードして閲覧することができる。
図3にiDolphinViewerの画面遷移を示す。ユーザーナビゲーションを向上させるため,画面遷移はすべて3層以内の階層しか持たない。アプリを起動すると,始めにアプリ起動用のパスフレーズを求められる。起動用パスワードには,ホームページから閲覧する時に用いるEHRログインID,パスワードとは異なる任意のパスフレーズを設定できる。EHRログインID,パスワードは,アプリの初回起動時にアプリに登録することができる。アプリが起動すると,始めに診療文書一覧画面が表示される。文書種別や表示件数は,画面上部をスワイプすることで絞り込むことができる。文書を選択すると中身が表示される。特に,検査結果の場合は,検査項目をタップすると,当該項目の時系列の履歴がグラフ表示される。現在,対応している文書種別は,処方と検査結果である。
iDolphinViewerのメリット
多くの場合,患者にとって診療情報はまじまじと閲覧するものではないため,知りたい検査結果にいかに早くたどり着けるかが肝となる。参照できる情報はホームページからの閲覧できるものと同様であるが,モバイルアプリを用いることで,わざわざパソコンを開いてホームページにアクセスする手間を省き,格段に速く文書を表示することができる。
また,文書はバックグラウンドでダウンロードされ,閲覧時にはすべての文書が端末に保存されているため,グラフ化なども高速に処理される。特に,災害時には当然インターネット接続の確保も困難であると予想され,そのような場合には直近の処方や検査結果を手元の端末で確認できることのメリットが大きい。医師はとりあえずの継続処方ができる上,迅速な判断,処置が可能となる。
事例として,京都大学医学部附属病院を受診した患者が,iDolphinViewerを持ってかかりつけ医を受診し,かかりつけ医に直近の検査結果を報告しているという例が数件報告されている。直接京都大学医学部附属病院と地域連携システムなどでの連携のない診療所であっても,結果としてモバイル端末を介して患者が中心となった医療連携が実現できていると言える。
iDolphinViewerの課題
閲覧機能については,現在のiDolphinViewerは十分に機能を果たしており,今ある診療情報をそのまま提示するという役割は成功していると言える。一方で,多施設間の検査結果の統合グラフ表示や,時系列での診療記録のキーイベントを強調表示するなどの付加価値を提供することが今後の課題と言える。とはいえ,アプリ上での実装ではなくEHR本体の機能向上や分析ツールの拡充により提供しうる情報もあると考えられるため,一概にすべてをアプリ上で実装することは得策ではない。現在はEHRサーバにiDolphinViewer用のWeb APIが実装され,特定のクエリーに対して特定の文書が応答として返される設計になっている。このWeb APIを拡充することで付加価値の高い情報の準備ができるため,それをアプリ上でいかに視認性良く提示するかを検討していく予定である。
特に,モバイルアプリの開発環境はめまぐるしくアップデートされるため,アプリの保守には継続的に労力を要する。現在は,医療オープンソースソフトウェア協議会(MOSS:Medical Open Source Software)の平山洋輔氏のご協力を得ながら継続的なアプリの改良と更新を行っており,長期的なアプリの安定提供のためには,アプリの機能をライトウェイトに維持することが重要であると考えている(図4)。
今後の展望
2015年10月から,国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)の平成27年度「臨床研究等ICT基盤構築研究事業」にてJMNAが国家レベルEHRの基盤構築「千年カルテプロジェクト」4)を開始し,EHRデータセンターのリノベーション,京都府,宮崎県(九州地域)を中心とした参加医療機関の拡充を進めている。今後の参加医療機関は,同じiDolphinのEHRプラットフォームに載るため,特段の費用負担などなくiDolphinViewerによる診療情報閲覧が可能となる。今後,EHRに医療情報が集積することにより,よりリッチな情報の提供が可能となると同時に,健康産業などを通じた生活情報と医療情報の連携が図られることにより,診断,処置などの医療そのものの質の向上につながっていくと期待される。
●参考文献
1)NPO法人日本医療ネットワーク協会 : iDolphinViewer for iPhone/iPad. 2015. (http://www.ehr.or.jp/idolphinviewer/index.html
)
2)NPO法人日本openEHR協会.(http://www.openehr.jp/
)
3)粂 直人, 平山洋輔, 小林慎治, 荒木賢二, 吉原博幸 : iDolphinViewer―モバイル端末による患者向け診療情報提供サービスを有するEHRの運用. 第15回日本医療情報学会学術大会, 2014.
4)千年カルテプロジェクト.(http://www.gehr.jp/
)
(くめ なおと)
2006年京都大学大学院情報学研究科社会情報学専攻博士後期課程修了。博士(情報)。京都大学医学部附属病院医療情報部助教などを経て,2013年4月から現職。NPO法人日本医療ネットワーク協会理事などを務める。