2017-2-15
社会全般で人工知能(AI)が注目を集めている。医療分野においても,AIがゲノム医療や個別化医療などの最先端の医療に活用され始めている。その中でも,AIの代名詞と言われるIBMのWatsonは,医療にも大きなインパクトを与えると言われている。そこで,医療者はAIとどのように向き合えばよいのか,日本アイ・ビー・エムの溝上敏文氏と中野雅由氏にインタビューした。
技術進歩により社会に広がるAI
─社会全般でAIが注目を集める理由を教えてください。
中野氏:AIが普及し始めた理由として,技術の進歩が挙げられます。ディープラーニングなど,機械がある程度自立的に学習する技術が発達したことで,膨大なデータを扱えるようになってきました。これにより,今までできなかった処理が可能になりました。例えば,自動車の自動運転に用いられる画像認識技術や音声認識なども,AIの技術の一つです。また,ロボットが話したり,コンピュータが囲碁や将棋をしたりするのもAIと言われます。このようにAIが社会的に注目を集めるようになったことで,拡大解釈されSF映画のようにコンピュータが人を支配するような世界を思い浮かべ,「畏敬の念」と「畏怖の念」を持って語られることも増えています。確実に技術は進歩し,企業では本格的な活用が始まっています。
あらゆる産業の基盤技術になるWatson
─Watsonは,どのようなものなのでしょうか。
中野氏:IBMではWatsonの技術をAIと言わず,「コグニティブ・コンピューティング」と呼んでいます。一般的に,データには,行と列の概念があって処理しやすい構造化データと,自然言語や音声,画像といった構造化されていない非構造化データがあります。Watsonは,この非構造化データの処理を行うのが特徴です。例えば,自然言語処理ならば,ある人の問いかけに対して適切に回答するといったことが可能です。最近では,技術開発が進み,音声や画像認識に加え,価値判断を行うトレードオフ分析なども可能になり,適用分野が広がっています。
─具体的には,どのような分野でWatsonが利用されているのでしょうか。
中野氏:業種では,銀行や保険,医療,教育など幅広い分野で導入が進んでいます。また,職種としては,私たちは照会応答系と呼んでいる受付やコールセンター,ヘルプデスクなどの業務での利用が進んでいます。もちろん,医療分野でも活用が進んでおり,膨大なデータから特定の情報を探し出すといった使われ方をしています。そのほか,意思決定支援の機能は,保険業界の約款,法律分野の条文や判例などで,合致しているかの判断を支援するために利用されています。このようにWatsonは多様な分野で役立てられており,私たちとしては,あらゆる産業で活用されるコグニティブ・コンピューティングの基盤になる技術です。
ゲノム医療や個別化医療において実用化が進むWatson
─医療分野では,どのようなことができるのでしょうか。
溝上氏:医療分野では,人が扱える量をはるかに超えた量の情報があると言われ,それをうまく利用できていないために,多くの問題が起きていると考えられています。私たちは電子カルテシステムやゲノム医療の基盤などにWatsonの技術を用いることで,医療の質を向上できる可能性があると考えました。
例えば,放射線科医は1日中読影室に閉じこもり,1回の検査で1000枚以上生成されるような医用画像を読影していますが,これは肉体的にも精神的にも非常に負担になる業務だと言われています。そこで,診断を確定するまでの一部分をWatsonが代わりに行うことで,その負担をある程度軽減することができるでしょう。
IBMでは,2015年4月に米国でIBM Watson Health事業を立ち上げ,その後クラウド基盤のWatson Health Cloudを構築して企業と提携するなど,医療分野での事業を展開しています。
─海外では,どのような実績があるのでしょうか。
溝上氏:米国では,メモリアル・スローン・ケタリングがんセンターやMDアンダーソンがんセンター,ニューヨーク・ゲノム・センターといった最先端の医療機関と共同研究を行い,Watsonを用いたシステム開発に取り組んでいます。このうち,メモリアル・スローン・ケタリングがんセンターとの共同研究では,Watson for Oncologyというがんの診断支援システムを開発し,SaaS型システムとしてクラウドベースで提供し,米国やタイ,インド,韓国の医療機関で導入されています。
─日本の医療分野におけるWatsonの利用はどのような状況でしょうか。
溝上氏:2015年7月に東京大学医科学研究所と提携し,Watson for Genomicsを用いた,がんの臨床シーケンスの共同研究を開始しました。Watson for Genomicsでは,インターネット上の膨大な研究論文や臨床試験情報などから,病気の原因である可能性の高い遺伝子変異や治療薬の候補を提示します。
また,製薬企業とともに創薬にWatsonを活用するプロジェクトも進んでいます。Watson for Drug Discoveryでは,研究論文の文献情報データベースであるMEDLINEにある数千万件の論文の要約,特許情報,医学雑誌などのデータを読み込んでいて,遺伝子や疾患,薬剤の情報と関係性を抽出し創薬のための仮説を提示するなど,新薬の開発を支援します。
医療分野では,多様な領域で研究が行われ,大量の論文が執筆されています。私たちは,Watsonを用いてこれらの膨大なデータを分析することで医療が抱える課題の解決に貢献できる可能性があると考えています。
AIは人の五感を補うものであり最終的な意思決定は人が行う
─Watsonが普及していく上での課題を教えてください。
溝上氏:Watsonに限らず,AIなどの技術が医療の現場で使われるためには,法律の整備も重要だと思います。米国では2016年12月に21st Century Cures Actと呼ばれる法案が議会を通過しました。それによって,米国は診断支援のためのソフトウエアの普及に大きく前進したと言われています。
─今後,医療分野でのWatsonの展開など,読者に向けてメッセージをお願いします。
溝上氏:米国でAIに関するパブリックコメントの募集があった時,IBMではAIとは“Artificial Intelligence”ではなく,“Augmented Intelligence(拡張機能)”であるとのメッセージを出しました。人の感覚器官が処理できる情報量には限りがあります。IBMでは,Watsonがそれを補い人の五感を増幅させるような役割をして,人の意思決定を支援するというコンセプトで事業を進めていきます。
中野氏:人がやっていた仕事をWatsonが奪うといった意見をよく聞きます。しかし,Watsonは,膨大な非構造化データから可能性を提示する技術です。診断や処方などの最終決定はあくまでも人が行うものであり,決して置き換わるものではないというのが,IBMからのメッセージです。