FCR30周年記念座談会 FCRは医用画像の世界に何をもたらしたか
FCRが切り拓いたX線画像のデジタル化とその功績
2013-8-26
1975年の基本構想から始まったFCRの開発は,アナログからデジタルへの変革を実現する日本発の画期的な取り組みでした。2013年は,1983年に最初の臨床機であるFCR101が発売されてから30年の節目の年になります。世界に先駆けてFCRが切り拓いてきたデジタルX線イメージングの世界はいま,FPDの登場,PACS/フィルムレス化の普及など,大きな進展を見せています。現在のデジタル環境を先取りしたその“チャレンジ精神”,アナログから続く技術の継承と信頼性は,富士フイルムの“DNA”としてさまざまなプロジェクトに引き継がれ,今日の先進的なプロダクト群につながっています。
FCR 30周年を機に,当初よりFCRにかかわりの深い先生方にご参集いただき,FCRの歴史を振り返るとともに,富士フイルムのDNAが,どのように最新の製品群に受け継がれているかを再確認していきたいと思います。
司会:杜下 淳次(九州大学大学院医学研究院保健学部門教授)
出席:
佐々木康夫(岩手県立中央病院副院長/中央放射線部部長)
船橋 正夫(独立行政法人 大阪府立急性期・総合医療センター医療技術部放射線部門技師長)
加藤 久豊(前・富士フイルムメディカル株式会社代表取締役社長
(前・日本画像医療システム工業会会長))
■FCRの誕生
─フィルムの機能の本質を発展させていくことで誕生したFCR
(司会)杜下:FCRの第1号機が登場してから30年が経ったわけですが,最近はFCRの開発とその後の歴史について知らない世代も増えております。そこでまず,当時の開発チームの一員だった加藤さんから,FCR開発の背景や経緯についてお話いただきたいと思います。
加藤:富士フイルム足柄研究所の研究部長だった園田 実が,1971年に長期研究計画の重要テーマとして,FCRの原点となる構想を提出したことが始まりになります。当時はまさに,銀塩フィルムが華やかだった時代ですが,園田は将来は必ずデジタル技術が伸びてくるということを予見していたわけです。ちょうどスクリーン/フイルム系の新しいシステムができてフィルム全盛の頃に,社内で最先端の研究をしていた先輩技術者が,スクリーン/フイルムの進歩はそろそろ終わりではないか,これからはデジタルで新しい技術を開発するという構想を抱いていたのは驚くべきことです。
そして,実際に研究を始めたのが1975年です。私は入社して何年目かの若造だったのですが,開発メンバーに加わりました。当初からFCRは,今の装置とほとんど同じコンセプトでした。つまり,イメージングプレート(IP)にX線情報を蓄積し,レーザーを当てて情報を取り出し,それをデジタル処理してもう1回フィルムに出力するという,最初のコンセプトのとおりに開発を進めました。構想=技術開発という,大変珍しいケースだったと思います。
1970年代後半に設立されたアップルやマイクロソフトがパソコンを開発したことから世の中が大きく変わっていったのですが,FCRの開発はそれらの会社が存在しない頃に始まりました。そんな時代になぜと疑問に思うでしょうが,銀塩フィルムの限界を感じた危機感とともに,技術者としての野心や挑戦心があったのではないかと思います。
当時のFCRシステム図(図1)を見ると,イメージングプレートのところにフイルムとスクリーンを置けば,従来のX線装置ができてしまいます。それをFCRでは,イメージングプレートで撮影し,レーザースキャンでデータを読み込んで画像処理をし,もう1回フィルムに焼くことになりますので,当時は,「なぜこんな大げさなことをやるんだ?」「厚化粧したX線写真だ」と言われたこともありました。
しかしその後,臨床応用が進む中で,現場の先生方とのコミュニケーションなどを通じてどんどん技術が改善されていき,同時にデジタル技術やソフトウェアなどが驚くべき速さで進歩したことなどが相まって,今日につながっていると思います。
(司会)杜下:FCRはX線撮影装置の構成を変えなくても,フィルムカセッテの代わりにIPカセッテを組み込めばいいわけです。うまく考えられたシステムだなと思っていました。このシステムが,中国をはじめ東南アジアの国々で非常に重宝されています。FCRは日本国内は少し落ち着いてきましたが,海外では普及が進んでいます。X線撮影検査に大きな変革をもたらした,日本発の代表的な技術だと思います。
FCRが登場した当初から導入した船橋先生のところは,どういう状況だったのでしょうか。
船橋:当時の大阪府立病院(現・大阪府立急性期・総合医療センター)では,1987年に全面FCR化に取り組みましたが,そのきっかけとなったのは,病院の立て替えでした。当時の技師長が学会から持ち帰ったFCRのパンフレットで,画像処理によってコントラストや鮮鋭度が制御され,皮膚面から腰椎棘突起まで描出されている腹部側面画像を見て非常に驚きましたし惹きつけられました。いつかFCRの時代が来るだろう,そうなったときには使いたいという思いが芽生えていましたので,立て替えを機に上司や医師を説得して歩き,全面FCR化,デジタル化にチャレンジしたわけです。
第1世代の「FCR101」に比べて小型化した第2世代の「FCR201」「FCR501,502」「FCR901」が1985年に発売されましたので,1987年9月の開院にあわせて,来るべきPACS時代を見据えて,それら4機種を導入しました。
(司会)杜下:まさに今の時代を見越してデジタル化を行ったということで,当時はフィルムカセッテと暗室と自動現像機がすべての時代だったですから,非常にセンセーショナルな話題でした。
また,FCRの画像は2画像表示で,右画像はアナログX線写真では見たことがない処理が施されたショッキングな画像でした。フィルムの特性曲線を研究していた時代が長かっただけに,いとも簡単に階調処理ができ,空間周波数強調がかけられるということに非常に新鮮な印象を受けました。FCRの画像を使って診断される佐々木先生のお立場からはどうでしたでしょうか。
佐々木:確かに,B4判の大きさに通常のコンベンショナルに近い画像と強調処理画像の両方を表示したことは,インパクトが非常に大きかったですね。私も非常に興味を持ちまして,FCR101から使わせていただきました。FCRは直接デジタル化していろいろな画像処理ができるので,熱意を持って研究させていただきました。
また,当時は血管造影の後,ほとんど夜中までフィルムのサブトラクションを行っていたのですが,FCRは検査が終わったらすぐサブトラクション画像が出てきます。初期の段階では,FCRを使ったフイルムチェンジャーが一番ありがたかったです。
(司会)杜下:その当時,FCRの画像処理に対して,ある大学病院の放射線科医は「この画像は使えません」と言い,かたやその上司の先生は「これは大変な将来の可能性を秘めているから,何が写っているか,どう診断するのかが君たちの仕事だ」と言ったという話が,強く印象に残っています。当時から,FCRがかなり深い可能性を秘めているということに気づいている方も多かったと思います。
それに,今お話にも出ましたが,FCRにはサブトラクション機能が最初からありました。今はもう当たり前になっているエネルギーサブトラクションの技術もFCR101の時代から実現していました。
加藤:メーカーとしては,今までフィルムを販売してはいましたが,先生方がどうやって画像を診断するのかまったくわかりませんでした。処理する技術は持っていても何をしていいのか本当にわからなくて,臨床の先生方と一緒に「診断画像研究会」を発足させて研究を行いました。放射線科医にテスト画像を見てもらって話を聞き,評価していただくことで,徐々に臨床で役に立つ画像を作っていくことができるようになったと思います。
(司会)杜下:FCRは,ユーザー側で画像処理の設定が自由にできますが,もっと画質を上げたいという画像診断医側の要望も多かったと思われます。富士フイルムが先生方とのコミュニケーションを図り,実際に臨床現場に足を踏み入れて研究・開発を進めてきたということがよくわかりました。
佐々木先生はずっと,FCRの画質の向上,診断能の向上を要望する立場だったと思いますが,具体的にはどのようなことを求めてこられましたか。
佐々木:過去においてはコンベンショナル画像では見える肺の淡い陰影が,当初のFCRでは見えにくいということがあったと思います。ただし問題は,それが臨床にどのくらい影響を与えているのかということで,わずかな変化が見えないことによって患者さんに不利益があったわけではなく,許容範囲だったと思います。その後,均一ではなく,アダプティブに画像処理を加えるようになって,フィルムとの画質の差はほとんどなくなったのではないかと思います。
加藤:先生方がデジタル画像に慣れると,診断能の向上のための画像処理や,画像表示方法,付帯情報の出し方など,ソフトウェアでの工夫の要望に変わってきたと感じていました。
(司会)杜下:ダイナミックレンジ圧縮,ノイズ軽減処理,そしてグリッドの縞目を消す処理等々,たくさんの新しい画像処理技術がどんどん導入されて,画質が改善されていきましたが,並大抵の苦労,努力ではなかったと思います。そして,画像処理のスピードもどんどん上がり,高速化されていきました。
FCRはどんどん小型化し,また,PACS を見据えて新しいシステムに変わっていきました。大きな病院だけでなく,クリニックのFCR化・デジタル化も進み,診療報酬面でも1985年には保険点数が認められるなど,普及に弾みがつきました。今の若い人たちは,ボタンを押して瞬時に画像が出てくることが当たり前になっていますので,FCRのような日本発のすばらしい技術開発の経緯をきちんと伝えることを教育者としては注意しています。
■FCR導入によるワークフローの改善
─撮影ワークフローはどのように改善されたか
(司会)杜下:FCRを実際に導入した後,ワークフローはどのように変化し,また改善されたのかを振り返っていきたいと思います。当初,臨床現場ではアナログとデジタルが混在している施設がほとんどでしたが,船橋先生の施設のように,最初からすべてFCR化したところではいかがでしたか。
船橋:FCRは画像そのものは非常にインパクトがあって,将来的に大きな可能性を感じていましたが,臨床現場で使うためには,装置自体は改良が必要なところがたくさんありました。導入前からひとつずつ細かくチェックして,担当者を通じて宮台技術開発センターの技術陣との間で討論を始めていました。問題点を繰り返しやりとりして改善する作業が延々と続きました。“デジタルの問題点はデジタルで解決する”というのが私たちの合言葉でした。
FCR導入の目的のひとつは,撮影システムの省力化です。フィルムの現像処理を省けることで,技師の業務軽減が可能になります。また,撮影装置とFCRをオンライン化して,撮影メニューを選ぶと撮影条件が設定されるシステムを考案し,各社に協力していただいて実現させました。パノラマ撮影や長尺撮影をFCRで実施できるように,装置メーカーとともに開発を行ったりもしています。FCRによる省力化,ワークフローの改善は,最終的には患者さんに還元することが目標でした。
(司会)杜下:1983年に第1世代の「FCR101」が登場してから,2年後には第2世代,5年後には第3世代と,どんどん新しい装置に変わっていきましたが,メーカーとしてはどのような将来像を見据えて開発を進めてこられたのですか?
加藤:FCR自体は技術的には自信をもって販売していましたが,船橋先生のところのように,実際の運用面で先生方の望んでおられることは全面FCR化でした。当初は,フィルムと混在していては効率が悪いという考え方が,われわれにはわからなかったのです。1990年代以降になって,本当の臨床の世界を理解したと思います。このことが,後にフィルムレスPACSシステム(SYNAPSE)の開発につながっていったと私は思います。
(司会)杜下:アナログからデジタルに変わる中で,大きな考え方のシフトがあったということですね。その間の経緯をずっと画像診断医として見てこられた佐々木先生は,デジタル化,そして,PACSを含めた全体のワークフローの変化について,どのようにお考えですか。
佐々木:私も最初は,FCRの可能性については画像処理や画質ということだけで,情報化やネットワークは頭になかったですね。最初のB4サイズ2画像表示から1画像表示になった時点で,当院は全面FCR化し,その後PACS化しました。FCRがなければPACSによる全面デジタル化ということはあり得なかったので,その役割が一番大きいのではないかと思い
ます。
■画像診断のデジタル化とPACS化,フィルムレス化の進展
─爆発する大量データの扱いと読影の効率化,遠隔読影のメリットとは
(司会)杜下:富士フイルムのPACSである「SYNAPSE」は,全体としてバランスのとれた使いやすいシステムと聞いています。SYNAPSE開発のきっかけや経緯を教えてください。
加藤:図2は弊社から見た画像診断の歴史です。デジタル技術というのはものすごいスピードで進歩しますので,画像の表示にかかる時間も短くなり,フィルム出力しなくても,サーバに保存してモニタに表示すれば済むのではないかと考えるようになってきました。1995年頃と記憶しています。当時,議論されていたPACSの開発を始めるにあたって,先生方のご助言を受けて,やるなら全面的なフィルムレスPACSをめざそうということになり,当時,最先端だったアメリカに日本から技術者を派遣しSYNAPSEを開発しました。
したがって,図2の(3)から(4)にいっぺんに移行し,すべてサーバとモニタに置き換えるということになります。当時社内でも,「なぜ自分たちのフィルムをなくすようなシステムを作るんだ」と反対意見も多かったのですが,とことんやりましょうということで,静岡がんセンターやがん研有明病院でオールFCR,全面フイルムレス化のPACS を導入していただきました。
佐々木:当院でPACSを導入したのは1998年ですが,画像診断部門だけで使い始めて,病院のなかはまだフィルム運用でした。というのも,CTやMRIはまだビックデータではなく,フィルム2,3枚で済んでいた時代でした。その後,画像枚数が急増するにつれて,フィルムでは対応できない時代になってきました。実際,読影のフローに乗せていく場合も,過去画像との参照等々含めると,フィルムでは読影効率に影響を与えるということで,院内もPACS化していきます。
一方,医療情報も電子カルテになりましたので,フィルムはシヤウカステン,カルテはモニタで見るということはナンセンスですから,全部モニタで見ることになりました。また,電子カルテは情報の共有化を図るわけですから,当然,画像情報も共有化し,いつでもどこでも見られる環境を作ることが前提になってきました。このように,情報化時代ということとPACSの普及というのは,同時進行で起こっていると考えております。
船橋:当院も1987年にFCRを導入するときにPACSの概念はすでに持っていました。PACSの時代が来ることを意識して全面FCR化したので,それを試してみたいという欲求があり,まず手術室に大きなモニタを入れて,ミニPACSを構築しましたが,現場はびっくりするぐらい喜びました。撮ったそばから見えるというのは,恐るべき効果だと思っています。当時のFCRから咲いたひとつの花と言いますか,清潔のままモニタで見られる手術室だからこそのメリットで,われわれにとってもPACSの入口だったと思います。その後,当院はCT,MRIからPACS化を始めています。
(司会)杜下:病院全体の電子化を含めてHIS,RIS,PACS,IHEという大きな流れのなかで一気にデジタル化が進み,病院の医用画像はすべてデジタルという時代になりました。そうなると,以前から言われていた遠隔画像診断をもっとうまく利用しようという要望も出てくるのではないかと思いますがいかがでしょうか。
佐々木:FCRに関してはずいぶん昔,FCRシステム同士の伝送で岩手県内の画像を送ってもらって読影するということを始めました。ただ遠隔読影については,単純X線写真よりもむしろ,CTやMRIが適しています。昔はネットワークの帯域が非常に狭かったのですが,今は広帯域ですから,検診施設からの単純X線画像でも何の問題もありません。ネットワーク時代では,遠隔も院内も読影における差はなくなってきていると思います。
(司会)杜下:開発の立場からすると,遠隔画像診断は最初から構想のひとつにあったと思います。読影の仕組みを変えるという大きな流れがあったのではないでしょうか。
加藤:われわれは,デジタル化・IT化によるパラダイムシフトが起きていると考えています(図3)。カルテも画像もデジタル化され,技術的にも進歩して,どちらかというとコモディティ化しつつあるので,本質的な価値はソフトウェアという時代になってきたと思います。
開発側からすると,ソフトウェア提供の付加価値は3種類あると思っています。1つはインテリジェンスです。例えば,CADのようにいろいろな特徴を抽出したり計測したりする人工知能的な部分です。2つ目はネットワークです。きわめて広帯域でデータのやり取りができますので,隣にいようが海外にいようが同じ簡便さを実現できます。そして,3つ目がビッグデータと称する膨大なデータベースで,データの加工や送受信がきわめて高速にできるようになりました。この3つの切り口で,どういうソフトウェアを作っていくかを,盛んに研究しています。ビジネスの主体というか,技術の主体がソフトウェアに移ってきて,しかも,それをどう使っていくのか医師と話し合いながら,ユーザーのニーズにあわせた商品を作っていく,そういう時代になりつつあるのではないかと感じます。
■デジタル画像による診断能の向上
─実用化された画像処理技術をどう活用するか
(司会)杜下:ネットワークをうまく利用する,あるいはデータベース機能をうまく活用するようなコンピュータ支援診断システム(CAD)や経時差分画像システム(テンポラルサブトラクション:TS),あるいはマンモグラムにおける微細石灰化のコンピュータによる検出などが実用化しています。FCR開発からちょうど30年ですが,CADも1980年初め頃から,長い期間をかけて研究・開発が続けられています。このような新しい画像処理技術の有効な活用について,臨床の先生方の理解がずいぶん深まりつつあると思いますがいかがでしょうか。
佐々木:1つは画像処理技術,もう1つはCADの技術に以前から期待していています。それなりの成果は上がってきているのですが,実際に臨床で一番役に立っているのは経時差分画像技術ではないかと思います。われわれは1997年から,岩手県で検診車にFCRを世界で初めて搭載することができました。その際,経時差分画像を導入し,以来15年間,実施しています。今は年間4万人以上の患者さんについて,経時差分画像で読影しています。肺がんの患者さんは年間7万人強ぐらい亡くなっていますが,肺がん死をなんとか減らすための技術として,非常に有用性が高いと考えています。
(司会)杜下:さらに,データベースをうまく利用するという意味で,類似症例検索システムにも佐々木先生は深く関係されています。
佐々木:これからは,各個人の画像情報データベースをどのように利用していくかという時代に入ったのではないかと思います。そして,データベースとして保存しておくだけではなく,常に患者さんの健康状態をモニタリングするための技術として使っていけるのではないかと思います。
■FCRからDRへ
─DRの本質とは,今後のDR技術に期待すること
(司会)杜下:これまではFCRを中心に議論してきたのですが,2000年になってから直接変換・間接変換方式のFPDが実用化され,いよいよデジタルX線システムの選択肢が増えてきたと思います。富士フイルムもFCRだけではなくDRも製品化しているという最近の流れがあるのですが,船橋先生にユーザーの立場から,これらの変化についてお話いただけますか。
船橋:FPDでは,1枚あたりの処理スピードがかなり速いというスケールメリットが,まず劇的な変化です。例えば,整形領域では人工関節の撮影は非常に多岐にわたり,1人の患者さんで十数枚は撮影します。痛みのある患者さんは,同じ姿勢のまま何分間も待つことはできませんが,3秒なら待てます。その意味で,FPDの即時性は圧倒的なパワーだと考えます。実際に,外来の一般撮影室のスループットは大きく向上しました。これはある意味,FPD時代の幕開けとして,最も重要なポイントではないかと思います。
例えば災害現場では,X線発生装置にFPDが積んであれば,患者さんを撮影してその場でモニタ画面で見て診断し,それを保存し,復旧後ネットワークを活用して送信する。そうすることで災害時にライフラインが途絶えても自己完結できる装置を手に入れたことになり,強烈な臨床的インパクトだと考えています。
(司会)杜下:FPDは画質も良くなってきましたし,最近ではワイヤレスも登場して,ますます使い勝手が良くなっています。佐々木先生はどのように感じておられますか。
佐々木:FPDは当院ではまだ採用していないのですが,検診ではすでにFPDに切り換わっていまして,とても良いと思っています。ただ画像処理技術ということについて言うと,FPDになったから新しい技術が出てきているということではないので,FCRのワンエクスポージャーのエネルギーサブトラクション(ES)やテンポラルサブトラクション(TS)などに代わる,あるいは超える技術の開発が非常に楽しみです。
(司会)杜下:富士フイルムとしては,どのような方向性でFPDを開発してきたのでしょうか。
加藤:われわれはずっとFCRを開発してきましたが,半導体のプロセス技術が向上し,FPDの考え方が成り立つということが見えてきた時点からFPDの研究を始めています。方向性としては,ひとつは画質だけは絶対に負けないようにしようと思っています。もうひとつは先ほどのお話のように,FCRを全面的にDRに置き換えていく際,画像処理も含めて同じワークフローで使えるようにしたいと思っています。この2つを非常に意識して開発してきました。
船橋:私は,ISS(Irradiation Side Sampling)方式というのは画期的な素晴らしい技術だと思っています。高感度でありながら,鮮鋭度も向上させることに成功しているシステムです。これは富士フイルム独自の技術であり,われわれがFPDを選定するときの大きなキーテクノロジーになると思っています。
(司会)杜下:昔はよく,ステレオ撮影をして2枚のフィルムを並べて立体視することを行っていましたが,FPDのデジタルマンモグラフィでステレオ撮影した画像を立体的な3Dマンモグラフィ画像として表示する「リアル3Dマンモグラフィ」が開発されました。また,以前はよく行われていた断層撮影のデジタル版であるトモシンセシスも話題になっています。フィルム時代の技術がデジタル化によって再び脚光を浴びているというか,逆に新鮮な印象さえ受けます。佐々木先生,今後の期待も込めてご意見をいただければと思います。
佐々木:リアル3Dマンモグラフィの画像を何回か拝見したのですが,前後方向にセパレートして人間の頭に認識させることは,非常に有効だと思います。今までの2D画像では,腫瘤と乳房実質との区別がつかなかったり,石灰化もよくわからないことがありましたが,3D画像表示で直感的にわかるようになって,乳房については非常に有力だと思います。
それからトモシンセシスも,病変の深さ方向の情報が得られるという点で非常に良いと思っていますが,CTとの使い分けが課題になってくるだろうと思います。
■デジタル化の展望と課題
─FCRがもたらした功績を踏まえて
(司会)杜下:CTは急速に進歩していますが,被ばく低減が課題です。日本のように,CTの導入台数が非常に多い国では,被ばくの少ない一般X線をどのように活用していくかを常に考えなければいけないと思います。しかし一方,FCRやDRは感度のことを気にしなくても,概ね適正な濃度が得られるので,患者さんがどれぐらい被ばくしているのか,あまり意識しなくなってきています。スクリーン/フィルム系の条件を経験していない,オーバーでもアンダーでも良く撮れてしまう世代の技師が増えている状況のなかで,被ばく低減や線量管理にどのように取り組んでいけばよいでしょうか。
船橋:ひとつは,富士フイルム自身がテーマにしているエクスポージャーインデックス(Exposure Index:EI)の導入です。国際電気標準会議(IEC)が2008年に提唱した線量指標であるEIをRISに標準搭載して,被ばく線量低減の具体的な指標とすることです。さらに,画像認識が進歩すれば,オーダしたメニューが達成できる線量で自動的に撮影されるような仕組みが考えられ,期待しています。
それから,目標EI値であるEITに対する偏差の指標であるディビエーションインデックス(Deviation Index:DI)は,目標線量に対する適・不適が評価できます。この評価を可視化して明確にわかるようなシステムにして,各々の施設で過線量(低線量)で撮った瞬間に気付くようにしていかないと,被ばく線量は低減できないと思います。今の若い世代は,おそらく濃度という感覚がないと思いますので,線量を制御していくには違うかたちで可視化していくということが重要です。
佐々木:やはりこれからは,撮影法の標準化ということが必要だと思います。さらに,個人々の画像情報のデータベースを集約化して,病院ごとではなく,地域や全国の共有データベースをもとに線量の最適化を図ることができればいいと思っています。画質の標準化を進めながら低被ばくを図るという,両方を進めていく必要があるのではないでしょうか。
(司会)杜下:今後の一般撮影のデジタル化は,どのような方向に向かうのでしょうか。
加藤:先ほど先生方が指摘された線量の管理や,画像の標準化は非常に重要だと思っています。また,今度の薬事法改正でソフトウェア単体が医療機器として認められる方向ですので,ネットワーク化されたいろいろなモダリティを駆使して診断・治療するような場合はソフトウェアがポイントになると思います。これからの臨床現場で,進歩した個々のハードウェアを生かすにはどのようなソフトウェアが求められるのか,FCRの初期と同様,新しい医工連携の仕組みを作って共同研究していくことが必要と思っています。
(司会)杜下:大量のデジタル画像データが扱えるようになって,先生方が本当に求めているものを1つでも2つでも実現していきながら,それを臨床にフィードバックして改善していくことが重要ということですね。
本日はFCR開発30周年記念ということで,今までの歴史を振り返りながら,新しいDR装置が台頭していく中で,今後の医用画像の方向性についてお話をうかがいました。デジタル化がもたらすメリットとともに,課題も見えてきたのではないかと思います。世界初,日本発のFCRの開発を可能にした富士フイルムのチャレンジ精神が,これからも医用画像の未来を切り開いていくことを確信しています。先生方,長時間ありがとうございました。
(2013年6月3日,富士フイルム本社にて開催)
杜下 淳次(九州大学大学院医学研究院保健学部門教授)
1981年 立命館大学卒業。1984年 京都医療技術専門学校卒業,同年 京都大学医学部附属病院技官。1986年 山口大学病院医学部附属病院技官。1991年 シカゴ大学カートロスマン放射線像研究所研究員。1994年 京都医療技術短期大学講師。1997年 岐阜大学博士(工学)号取得。2004年 九州大学助教授を経て2010年より現職。
船橋 正夫(独立行政法人 大阪府立急性期・総合医療センター医療技術部放射線部門技師長)
1978年 大阪大学医療技術短期大学部診療放射線技術学科卒業,同年 星ヶ丘厚生年金病院放射線科奉職。1981年 大阪府立病院奉職(2003年 大阪府立急性期・総合医療センターに改名)。2009年より現職。
佐々木康夫(岩手県立中央病院副院長/中央放射線部部長)
1977年 岩手医科大学卒業,同大学院入学。1981年 岩手医科大学大学院修了,同年 岩手医科大学放射線医学講座助手。1987〜88年 シカゴ大学放射線科研究員。1990年 岩手医科大学放射線医学講座講師。1992年 岩手県立中央病院放射線部長を経て現職。
加藤 久豊(前・富士フイルムメディカル株式会社代表取締役社長/前・日本画像医療システム工業会会長)
1969年 東京大学大学院工学系研究科修士課程卒。同年 富士写真フイルム株式会社入社。1996年 宮台技術開発センター研究部長,1998年 機器事業部商品部長,2000年 執行役員宮台技術開発センター所長を歴任。2003〜2007年 取締役常務執行役員。2005〜2008年 富士フイルムメディカル株式会社代表取締役社長。2009〜2012年 富士フイルムメディカル株式会社会長。2009〜2012年 日本画像医療システム工業会会長。