研究開発というのは,これからどうなるかわからない事業に資金と人材を投入するということに,他ならない。企業のあらゆる方針が,ある程度の不安定性と予測困難性を抱えていることは事実としても,研究開発ほど不確定要素の多いものではないだろう。良いと思って開発研究に取り組んでも,長年の努力の結果がむなしい結末に終わることが薬剤開発などではまれではない。医療機器の場合も,現場のニーズをよく把握し,そのニーズに応えられるように実用化可能な最新の素材や技術を組み合わせて実際の医療機器にしていくのは,技術者の力だろう。ただ,現場のニーズがあり,技術者に卓越した能力があれば,後は自然に製品が出来上がるわけではない。上流さえよければ,後は努力次第で何とでもなるというリニアモデル的発想ではうまくいかない。製品さえ良ければ,後の業務を担う人材については,OJT方式で現場で鍛えていけば大丈夫というわけでもない。
医薬品や医療機器の開発研究が,先進諸国の中でも限られた国でしか行われていないのはなぜか。そうならざるを得ない要因があるからだろう。それは,開発研究の成果が必ずしも短期間で収益を生み出しにくいという特徴だけによるわけではない。開発の周辺には,多数の専門的職種がすでに育っていることが求められる。したがって,シーズの創出力や,それを現実のモデルにする技術力という直接的な力が発揮される基盤として,高度な技術レベルを支える医学・生物学や工学の教育レベルの高さが必要になる。何と言っても,医薬品や医療機器は,ヒトの臨床医学の実用に足るものであるという条件も重要だ。そのためには,安全な素材で長期的に利用できる機器をつくり,それを検査して保守管理し,改良する技術者が必要だ。また,単に技術的な問題だけではなく,法制上の諸問題,知財とライセンス化の問題,国際的な商品とするために規格の問題,実際にヒトに応用する段階での治験,その後の改良作業など取り上げるときりがないほど,多くの人材が関与すべき仕事だ。
要するに,医薬品や医療機器の新規の開発というのは,一国の総合力に依存せざるを得ない産業なのだ。したがって,この分野を強化しようと考える場合,1人の個人が思い立ったとしても,その周辺にそれをサポートする人材の基盤がなければ,その個人の夢は夢想に終わってしまう。と言うことになれば,当然,社会的な基盤として,人材育成のシステムが成熟していることが求められる。わが国が工業分野において戦後急速に成長したのは,それに対応する優秀な理工系の人材を大量に養成する教育システムを成立させてきたからだとも言える。
日本は工業製品の開発において,戦後見習うべきモデルとして米国を想定してきたように思う。大量生産や品質管理のやり方については,ある時点でその先生である欧米諸国を追い抜き,日本が学ばれる対象にさえなった。工業製品については,近年製造物に関する生産者の責任が重くなったとは言え,いまだ市場的な競争の世界の中にある。しかし,医療機器については,単純に市場的競争の中の商品開発とは言い難い。その困難さを克服するために見習うべきモデルは,米国にあると単純に言えるのであろうか。米国は,医療を個人が自己責任で購入するサービスと位置づけ,個々人は民間の保険会社(最近はHMO)との個人契約によって医療費を支払っている。このような国においては,医療機器の開発や商品化,価格設定などには大きな自由度がある。だからと言って,わが国で米国型の開発モデルをそのままコピーして持ってくることはできない。また,そのような開発方式がわが国でできないからと言って,わが国が長年維持してきた国民皆保険制度を破壊してしまうという発想が適切かどうかはよく考える必要がある。英国の医学雑誌Lancetは,わが国の保険医療制度,特に皆保険制度は成功であったと評価し,最近その特集号を発刊したくらいだ。米国とは医療制度が異なる西ヨーロッパ諸国においても,医療機器開発は行われている。寡聞にして,その詳細はよく知らないが,わが国の医療機器メーカーには,西ヨーロッパ諸国の人材育成と開発方式に関する研究が必要ではないかと思う。
医療機器開発は総合力の勝負だ。国として,医療機器の開発のようなリスクのある分野を強化していくというのであれば, 1つには,人材の育成に力を入れることが必須であり,一方では,開発を行う上で米国モデルを単純にコピーすることをやめ,新しい方式についてのわが国独自の工夫が必要ではないかと考えられる。 |