ヘルスケア分野のビッグデータ活用には政治のリーダーシップと国民の意識改革,そして,医療の創造的破壊を実現するデータサイエンティストの存在がカギを握る
工藤 卓哉 氏 アクセンチュア株式会社 アクセンチュア アナリティクス 日本統括 マネジング・ディレクター
2015-8-6
センシングなどの技術革新により,ヘルスケア分野においても,ビッグデータの活用が期待されている。ビッグデータは分析し,それを意思決定に結びつけて,初めて意味を持つ。日本のヘルスケア分野においてビッグデータを有効に活用するためには,政治のリーダーシップと国民の意識改革が必要である。そして,今後ビッグデータの活用によって従来の医療の創造的破壊を進め,日本の医療が抱えている問題を解決するような,データサイエンティストの存在も大きなカギを握っている。
ビッグデータは,そのデータを分析し,意思決定につなげてこそ意味を持つ
ビッグデータとは,一般的に「velocity(速度)」「variety(種類)」「volume(データ量,または変動性を意味するvariability)」というキーワードで定義されていますが,私自身は,「列」である横幅と「行」である縦幅に,それぞれ大量の情報が記録され,列と行の幅が広大な面積になっている状態だと考えています。例えば,個人のゲノム解析における塩基配列データを列に,心拍数などのバイタルデータをリアルタイムに行へ記録することで,列と行ともに膨大なデータ量になります。これこそがビッグデータです。医療においては,電子カルテの診療情報やICDコードといった構造化データに加えて,日常生活の中からセンシング技術によって集積された生体情報などもビッグデータになると考えます。
しかし,データが大規模であればよいというわけではありません。データ量が膨大になることによって,スパース性(データ空間に疎があること)により,分析やモデリングが困難になることがあります。このことを踏まえると,ビッグデータは分析ができ,そして,その結果を意思決定につなげて,初めて意味があるのだと言えます。
F1チームのデータ分析のノウハウを生かしたバーミンガム小児科病院の集中治療支援システム
最近,ヘルスケア分野でもビッグデータが注目されるようになってきましたが,医療においてはデータ形式などの標準化が遅れたこともあり,ビッグデータの利用が難しいという指摘もあります。しかし,必ずしも標準化されていなくても,成功している事例もいくつか出てきています。
例えば,自動車レースのF1で有名なマクラーレン・エレクトロニクスによる英国バーミンガム小児科病院における集中治療支援システムの例が挙げられます。マクラーレン・エレクトロニクスはF1レースにおいて,センシング技術を用いて,レース中,F1マシンから毎秒2〜4メガビットの速度で発生するデータをリアルタイムに収集,処理して,速度のデータからタイヤの摩擦状況を予測し交換のタイミングを決めるといった各種の分析を行い,コンマミリ秒の世界を戦っています。このような技術を医療にも応用しようと,治療中の小児患者にセンサを取り付け,心拍数や呼吸数,血中酸素濃度などの生体情報を収集し,データベース上に蓄積,分析することで,容態の急変などのリスクを事前に予測するシステムを開発しました。
バーミンガム小児科病院の集中治療室では,このシステムの臨床試験を行い,新生児や小児の患者から生成される膨大なビッグデータを基に,心不全や心停止などを未然に防ぐことで,医療現場を支援しています。同院が導入した集中治療支援システムは,標準化が難しい部門のシステムですが,患者の重症化や突然死を防ぐだけでなく,多忙な医療現場で医師をはじめとした医療スタッフの負担を軽減できるようになりました。このように,医療におけるビッグデータ利用は,必ずしも標準化がされていなくても可能なのです。
ビッグデータの活用を進めるためには政治や行政のリーダーシップと国民の意識改革が必要
しかしながら,日本では,「まず標準化ありき」という考え方から,ビッグデータ活用の計画が進まなかったり,うまくいかなかったりするケースが多いように感じています。確かに,ICDコードのデータから生活習慣病の予測モデルをつくるといったことを行うには,標準化が重要です。とは言え,すべてのシステムやデータを標準化するのは困難であり,完璧さを求めるあまり何もできない状況になっているのが,日本の現状だと思います。できることとできないことを明確にして,可能なことからビッグデータを集め,活用できるようにする割り切りが必要です。その割り切りをはっきりとするためには,政治のリーダーシップが大切だと考えます。
政治には,ビッグデータ活用のための予算面でもリーダーシップを発揮してほしいと思います。私が米国ニューヨーク市で,最初に担当したプライマリケア情報化プロジェクトでは,数十億ドルの資金が用意され,わずか数か月でクラウドシステムを構築し,運用を開始しました。
一方で,日本の場合は,地域や医療機関が個々に計画を進めていることが多く,結果として標準化が困難になり,ほかの地域と連携できないという問題を抱えることになります。こうした状況を解決するためにも,予算配分などのガバナンスを強化することが,日本の政治には求められています。
さらに,日本のヘルスケア分野でビッグデータ活用を進めるためには,国民の意識を変える必要があります。日本は国民皆保険制度のため,医療費の自己負担額が少ないことから,費用に関する意識が非常に低いと思います。例えば,診療報酬では初診料が282点で,1回病院に行くだけで2820円もの費用がかかるということを,多くの日本人は知らないでしょう。
対して,米国は自由診療であり,高額な医療費の支払いに備え私的医療保険に加入するなど,自己負担額に対する意識が非常に高い国です。そのため,自身の診療に関する情報を知りたい,データがほしいという強いニーズがあります。また,ウエアラブルデバイスが普及しているのも,後に生活習慣病などになって巨額の医療費を支払うよりは,少ない投資で自らが日常的に健康管理をして,予防した方が良いという意識の表れです。米国では,こうした国民意識が医療などヘルスケア分野のIT化を後押ししています。
従来の医療の創造的破壊にはデータサイエンティストの存在がカギを握る
国民の意識改革が進んでいけば,ビッグデータを有効に活用できる環境ができてくると思います。米国では,グーグルが血糖値などを測定できるスマートコンタクトレンズの開発を進めるなど,IT企業がヘルスケア分野での事業展開に力を入れています。
彼らは,自分たちの技術をヘルスケア分野に積極的に応用し,医療の前段階である健康管理のビジネスを進めようとしています。例えば,スマートコンタクトレンズを用いて日々の血糖値などのデータを取得して,1型糖尿病の予備群に注意を促したり,健康に関してアドバイスをしたりするといったサービスを行うと考えられます。こうしたセンシング技術で集められたビッグデータを基に,発症や重篤化を予防するサービスは,従来の医療業界に創造的な破壊をもたらすこととなり,新たな市場をつくることにもつながります。
もちろん,日本においても,ビッグデータの活用により創造的破壊ができると思います。そのためには,ビッグデータを解析するデータサイエンティストの存在が重要あり,その人材を育成することが求められています。データサイエンティストが,膨大なビッグデータの中から,医療政策のための情報や経営改善に役立つ情報,個人の健康管理に有用な分析結果を示すことができれば,日本の医療が抱えている問題を解決できるかもしれません。現状では,まだまだ活躍の場が少ないかもしれませんが,ヘルスケア分野でビッグデータ活用が進めば,その存在意義は今後高まっていくに違いないでしょう。
(くどう たくや)
慶應義塾大学卒業後,アクセンチュアにおいてコンサルタントとして活躍。コロンビア大学国際公共政策大学院で修士号を取得し,ニューヨーク市で統計ディレクターを務めて,プライマリケア情報化プロジェクトなどの施策に携わる。また,カーネギーメロン工科大学情報技術科学大学院で修士号を取得。2011年から現職となる。データサイエンスの第一人者として,執筆,講演活動にも精力的に取り組んでいる。
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